京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑を訪ねて ~核物理学徒の殉職~

広島駅から山陽本線で西へ。「宮島口駅」で降車する観光客を横目にもう少し。「大野浦駅」で下車し、瀬戸内の丘を進む。厳島を望む温泉地の一角に、目的の記念碑は佇んでいました。

『荒勝文策と原子核物理学の黎明』内のコラム「大野浦の記念碑と花谷会館※1」を読んだとき、大野浦を訪れてみたいという思いが込み上げてきました。意を決した2018年のゴールデンウイーク。広島県廿日市市大野町にある「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑」を訪ねました。その日は、良く晴れた日でした。
※1:「花谷会館」については以下のウェブページが参考になります。

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京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑(2018年5月5日筆者撮影)

街道も通っていた山沿いの道を歩きながら、心の時計を昭和20年に戻しました。

トルーマン声明※2を受けた直後、核物理学者たちに突き付けられた課題は「広島に落とされた爆弾は本当に原子爆弾なのか」を検証することでした。
※2:広島への原爆投下を発表したトルーマン大統領の声明のこと。以下のページには声明の全文が載っている。

京都大学も調査団を広島へ派遣しました。ある日、調査に奔走した研究者たちは悲劇に見舞われました。台風による山津波(土石流)に巻き込まれてしまったのです。この悲劇を記録するために、昭和45年に記念碑が建設されたそうです。

調査団には荒勝文策博士の研究室で核分裂の研究に励んでいた大学院生・花谷暉一氏も含まれており、山津波によって殉職してしまいました。

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記念碑には殉職した京都大学の調査団員の名が刻まれている(2018年5月5日筆者撮影)

「やがて日本にすごい爆弾ができる」と鼓舞されて、特攻した若者もいたかもしれません。あの戦争で多くの若者が亡くなりました。その中には、未知の爆弾の痕跡を追って、命を落とした若手科学者もいたのです。

もし僕が昭和20年に生きていて、原子核物理学を専攻していたら、花谷氏とも知り合いだったのだろうか。彼らはどんな葛藤と闘っていたのでしょうか。そして、僕は何をしていただろうか。

広島駅へ戻る電車の中で、歴史が抱える含意を探っていました。そして、これからも考え続けたいと思ったのでした。

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