彦坂忠義博士による「原子核の殻模型」

はじめに

彦坂忠義博士は1930年代に「原子核の殻模型」に関する先駆的な研究を行っていた。しかし、原子核物理の教科書を開いても彼の名前を見つけることはできない。

その理由は何なのだろうか。

今回のブログでは、彦坂博士による「原子核の殻模型」が辿った歴史について、3つの側面から、複数の証言(記載)と共に紹介したい。

彦坂忠義博士の経歴

1902年(明治35年)12月25日生まれ
1926年(大正15年)東北帝国大学理学部物理学科 卒業
1926年(大正15年)東北帝国大学 副手
1935年(昭和10年)東北帝国大学 助手(高橋胖教授(光物性物理)の下)
1939年(昭和14年)山口高等学校 教授
 (1941年秋~1942年春:大阪大学菊池正士研究室へ内地留学)
1943年(昭和18年)第二高等学校 教授
1945年(昭和20年)旅順工科大学 教授(この間に日本が敗戦)
1949年(昭和24年)岩手大学岩手師範学校 教授
1950年(昭和25年)
岩手大学 教授
1950年(昭和25年)理学博士の学位授与(東北大学)
 学位論文「原子核エネルギー利用の一新法に就いて」
1951年(昭和26年)新潟大学 教授
1968年(昭和43年)東北学院大学 教授
1976年(昭和51年)東北学院大学 退職 (1977年3月まで嘱託)
1989年(平成元年)逝去

上記の経歴については文献[1,2]を参考に作成。
[1] 新潟大学理学部物理学科同窓会 編『彦坂忠義先生論文集』(1987)
[2] 東北大学理学部物理系同窓会 泉萩会『彦坂先生を偲んで』泉萩会会報 1990年6月号 p10-p13

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東北大学で行われた企画展示の資料(画像はここより拝借)

彦坂忠義博士による「原子核の殻模型」

「原子核の殻模型」とは、原子核中の核子の運動を記述する理論模型のことを指す。その模型からは、原子内電子のK殻・M殻・・・のごとし、原子核中核子の運動(エネルギー準位)にも殻構造が得られる。
※原子核の殻模型については、以下のページが参考になる。

殻模型は原子核物理の基礎理論の一つであるが、原子核物理の教科書をめくっても「彦坂忠義」の名前を見つけることはできない(例えば文献[3])。殻模型に関する専門家向けの総説記事をひっぱり出しても、その事情は変わらない(例えば文献[4])
[4] J. P. Elliott and A. M. Lane, Handbuch der Physik, Bd. XXXIX, Bau der Atomkerne, Springer-Verlag, Berlin (1957) p241-p245

したがって、彦坂博士の殻模型研究(以下、彦坂殻模型と記す)については、原子核物理の専門家でも知る人は少ない。

彦坂殻模型について調べてみると、フィジカルレビュー(Physical Review)誌からの掲載拒否判定、そして、大物理学者であるニールス・ボーア博士からの批判、という不遇な扱いを受けていたことが分かった。しかし一方で、菊池正士博士からの興味・評価を得ていたことも見えた。以下では、その3点について見ていきたい。

フィジカルレビュー誌からの掲載拒否判定とそれが残す疑問

彦坂殻模型のアイデアは1934年の岩波『科学』に投稿された[5,6,7]。彦坂博士はそれらの内容を英語論文にまとめ、アメリカ物理学会が発行しているフィジカルレビュー誌に投稿した。しかし、掲載拒否という判断が下されてしまった。ここで掲載が許可されていれば、僕たちが彦坂博士の名を見る機会が増えていたのだろう。
[5] 彦坂忠義「中性子の磁気能率について」科学 4, p141-p142 (1934)
[6] 彦坂忠義「原子核の質量欠損について」科学 4, p232-p233 (1934)
[7] 彦坂忠義「核内中性子の状態について」科学 4, p460-p461 (1934)

この一件について、文献[8]では、以下のようにコメントされている。

原子核の殻模型の考えが日本で1934年東北大学の彦坂忠義(1902-1989)によって提唱された。彦坂はアルファ粒子模型の考えも提案している。英文論文をアメリカの物理学論文誌Physical Reviewに投稿したが、主流とは異なる考えであったためか拒絶された。
[8] 大久保茂男「原子核発見100年をむかえて」徳島科学史雑誌 第30号 p3-p11 (2011)

掲載拒否の背景は(査読結果を見ない限り)推測の域を出ない。しかし、もし仮に、掲載拒否の理由が「主流とは異なる考えであったため」であったとしたら、この判定には疑問が残る。

まず浮かぶ疑問は、当時の“主流”の考えはどんなものだったのだろうか、である。この点については後述する。

そしてもう一つは、仮に“主流”とは異なる考えであるが故の掲載拒否であるならば、独創性が重んじられる科学研究への評価として、フィジカルレビューの当時の判断は妥当だったのかという疑問である。この2点目については、あくまで「仮に」の話であるので、これ以上の詮索は控えたい。

さて、この掲載拒否判定には、当の本人も納得できない面があったためか、彦坂博士は翌1935年に掲載拒否された内容を東北帝国大学理科報告にドイツ語の論文として発表している[9]。この論文については、福井崇時博士の報告が詳しい[10,11]
[9] T. Hikosaka, Quantenstufen der neutronen in kerne, The Science Report of the Tohoku Imperial University 1st Ser. 24, p208-p221 (1935)
[10] Proc. of the Fermilab. Workshop on the History of Particle Theory in Japan (1935-1960)

以上のような経緯により、彦坂殻模型は英語論文として世に出ることがなくなった。そこにさらに、大物からの批判が追い打ちをかける。彦坂殻模型を批判したのは、ニールス・ボーア博士だった。

ニールス・ボーア博士からの批判

フィジカルレビューの一件から数年が経った1937年。量子力学の発展を牽引した大物理学者 ニールス・ボーア博士が、仁科芳雄博士らの尽力により来日した[12]。この来日中に、彦坂博士はボーア博士と殻模型について話す機会があったそうだ(彦坂博士の経歴から推測するに、ボーア博士が東北帝国大学を訪れた際であると考えられる)

その際に、ボーア博士が評価してくれたりしていれば、彼の研究が日の目を見ることもあったのかもしれない。しかし、ここでも取り合ってもらえなかったそうだ。高林武彦博士は物理学会誌の中で、

Bohrは1937年春来日したさいに、一方で山内(或は彦坂)の殻模型的志向をdiscourageし、他方で湯川の中間子論にも同様だったといわれる

と記している[13]。こういう歴史を学ぶとボーア博士の先見性についても考えたくなってしまう。

さて、上記コメント中に登場する「山内」とは山内恭彦博士のことで、同時期に原子核の殻模型に関する研究をされていた。となると、ボーア博士と話をした人物が曖昧になるが、福井崇時博士の記事[11]中には、

事実、彦坂先生はBohrに説明をしたが完全に否定されたと言っていおられた

との記述もある。やはり、彦坂博士はボーア博士と話をし、そして、批判されたのだろう。

ここで、1937年当時の研究背景について述べておこう。ボーア博士は1936年に、原子核は水滴のように振舞う、という殻模型とは相反する「液滴モデル」を提唱した[14]。この影響力が強かったため、当時の原子核物理学界では「原子核内の核子(陽子と中性子)は、強く相互作用し合っているはずなので、原子内電子のような殻構造を形成するはずがない」という感覚が充満していたようだ。

例えば、伏見康治博士も以下のように回顧している[15]
[15] 伏見康治「彦坂先生の知られざる業績」日本原子力学会誌 27, p1 (1985)

ニールス・ボーアが来日して、原子核の液滴模型を説いて回っていた頃であり、私はそれに心酔していたから、核内中性子のエネルギー準位なぞとは問題外だと考えていたのに対し、菊池先生は彦坂さんの説に大変同調しておられた

彦坂さんは核子が共通のポテンシャルの穴の中に詰まっているとして、一種の殻構造を組み立ててある種の実験事実を説明しようとしておられた。菊池先生はこの仕事を高く評価しておられたが、不幸にも私にはその真価がわからなかった。当時私はボーアの液滴模型にとらわれていたので、相互作用のない核子の模型などは問題にならないと思っていたのである

ボーア博士の「液滴モデル」はその後、マイトナー博士とフリッシュ博士による核分裂の理論[16]を参考に、核分裂を説明する理論へと拡張され、1939年にホイーラー博士との共同研究としてフィジカルレビュー誌に発表された[17]

以上より、1930年代後半には、液滴モデルの考えがボーア博士によって広められており、“主流”になっている様子が伺える。ただし、彦坂殻模型がフィジカルレビュー誌に投稿された1934~1935年当時については、液滴モデルが“主流”だったかどうかかは分からない。

フィジカルレビュー誌の判定の謎は深まるばかりである。

話を戻して、伏見博士のコメントをもう一度見てみよう。そこからはボーア博士による液滴モデルの流行も伺えるが、他方で、菊池正士博士の存在も印象付けられる。彦坂殻模型は批判されるばかりではなかったのだ。次節では、菊池博士と彦坂博士についても触れておこう。

大阪帝国大学菊池正士研究室における1粒子共鳴研究

液滴モデル隆盛の最中、大阪帝国大学の菊池正士博士は、彦坂殻模型について注目していた。彦坂博士は1941年の秋から約半年、内地留学という形で、阪大の菊池研に滞在していた経験もある。

当時の菊池研では、中性子散乱実験を通して、原子核における1粒子共鳴現象の研究が行われていた。そして、その実験データの理論的な解析が彦坂殻模型に基づいて行われていた[18,19]
[18] S. Kikuchi and T. Wakatuki, Proc. Phys. Math. Soc. Japan 22, 142 (1940)
[19] 山崎正勝「大阪帝大における中性子散乱実験」科学史研究 II 21 (1982)

野上茂吉郎博士は物理学会誌の懇談の中で以下のように語っている[19]
[19] 有馬朗人・藤田純一・藤本陽一・堀江久・野上茂吉郎「原子核理論の歩み」日本物理学会誌 Vol.13 No.11, p701-p709 (1958)

N. Bohrがcompound nucleusを非常に強調しましたから。それから当時の山口高校の彦坂忠義さんが箱型ポテンシャルで核による中性子の弾性散乱の分析をされていたんですね。菊池、青木のデータとくらべてこのへんの山が説明できるとか、今から考えるとオプチカルモデル的な考え方であったわけです(笑)。だいぶ昔の話です。それが古代史(笑)。

湯川秀樹博士の中間子論をいち早く評価していたことも併せて、菊池博士の慧眼が伺える好例である。菊池博士の慧眼については、また別の機会に調べてみたい。

おわりに

今回のブログでは、彦坂殻模型について、
  • フィジカルレビュー誌からの掲載拒否判定とそれが残す疑問
  • ニールス・ボーア博士からの批判
  • 大阪帝国大学菊池正士研究室における1粒子共鳴研究
という3つの側面から紹介した。

フィジカルレビュー誌の判定については謎が深まるばかりである。掲載拒否された際の審査結果内容の史料が見つかれば、この点について明らかになるだろう。今後の課題としたい。

原子核の殻模型は1949年にメイヤー博士やイエンゼン博士らによって確立された。後年から振り返れば、彦坂殻模型のアイデアは間違いではなかった。原子核は液滴モデルで説明されるように液体的な側面もあるし、殻模型で説明されるように気体的な側面もあるのだ。

ボーア博士(や彼の理論に熱狂していた物理学者たち)は、少なくとも1937年当時は、そのような原子核像を受け入れることはできなかった。相補性を重んじたボーア博士のこのような振る舞いはとても興味深い。

また今回の調査からは、液滴モデルの熱狂の中でも、他の視点から原子核を見つめていた菊池正士博士の存在も際立った。

彦坂忠義博士の“肩越し”に覗いた歴史から、また自分の“原子核観”を広げることができた。また新しい資料や情報に出会えることができれば、彦坂殻模型に関する議論を深められるだろう。引き続き、彦坂殻模型へのアンテナを張っておきたい。

ちなみに、彦坂博士の研究業績には他にも、原子力工学や高層大気物理(オーロラ研究)に関するものもある。


P.S.
僕が彦坂忠義博士のことを知ったのは大学院生のときだった。彦坂博士は、新潟大学でも教鞭をとったことがある。彼と僕の間には、「原子核物理」「新潟大学」という二つの“共通項”があった(筆者は原子核物理の理論研究で2017年3月に新潟大学にて博士号を取得)。彦坂博士について調べたい。そう僕に思わせたのは、それら“共通項”の存在だった。興味の対象と自分との間に何かしらの“共通項”があると、好奇心は加速するのかもしれない。

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