アインシュタイン博士と三宅速博士の交流

1922年のクリスマス。九州帝国大学の見学を終えたアインシュタイン博士(以下、ア博士)は、九州帝国大学教授だった三宅速(はやり)博士の住まいを訪問します。三宅博士は、ア博士と親交を深めた医学者です。彼らの出逢いは、フランスから日本へと出港した北野丸の船上でした。

miyake_einstein.png
アインシュタイン博士と三宅博士。画像は 世界的外科医・三宅速|美馬市 観光情報 より。

三宅博士は日本政府からの要請で欧米諸国の医療施設を視察しており、北野丸への乗船はその帰途でした。インド洋を航海中、三宅博士はエルザ夫人からア博士の診察をお願いされました。三宅博士がア博士の部屋に治療に通い、親睦を深めたのです。回復後も船上で様々な会話を交わしながら友情を育んだそうです。ちなみにことのき、ア博士は自身の病気をがんだと心配していたそうです[1]

日本に到着した際、ア博士は三宅博士に「九州での講演も引き受けたので、あなたのお宅にも伺いたいと思う」と伝えたのでした[1]。三宅博士はア博士の福岡市での滞在先として、老舗「栄屋」を確保しました。その際、洋式便所を用意するようにも手配したそうです。それまでの帝国ホテルや金谷ホテルは洋式のホテルであったため、栄屋はア博士にとって初めての日本旅館でした。

日本を発った後も二人は書簡にて交流を続けました。しかし、ヒトラー政権から逃れるため、ア博士がアメリカに亡命後は交誼を絶つことになってしまいます。第二次世界大戦が始まり、1945年に入ると日本本土への空襲が始まります。三宅博士の息子・博氏が神戸にいた両親(速と三保)を岡山に迎え入れました。しかし、1945年6月29日夜明け前の空襲で、速博士と三保夫人が亡くなってしまいます。その空襲で亡くなったのは1,737人。そのうちの2人が速博士と三保夫人でした。

終戦後の1947年に博氏が、ア博士へ両親の死を手紙で告げることになります。その際に墓碑銘をア博士に依頼しました。

ア博士からの返事には独文と英文の墓碑銘が記載されていました。

(掲載された英文)
Here lie Dr. Hayari Miyake and his wife Miho Miyake.
They worked united for the welfare of man
And departed united as victims of his folly.

(邦訳:小林)
ここに三宅速博士とその妻・三宅三保が眠る。
彼らは共に人類の幸せのために働き、
そして、人類の愚行の犠牲となり、共に亡くなった。

この記事へのコメント